分からなかった。

私はどうして泣いているのだろう。

頬を伝う温度に背中を震わせて、自分のものではないような掠れた嗚咽が漏れる。
呼吸は酷く難しく、頭の中に渦巻くたくさんの記憶に支配される。体ごと、消えてしまいそうな冷たさに呑まれる。
四肢に走る感覚は初めて味わうもの。胸を灼く感情は今まで知らなかったもの。
引きつった舌は言葉を紡げない。ただ涙を流すことに全てを集中したように、他の器官が働かない。
麻酔に浸った感覚のない唇を、きつくきつく噛む。鉄の味だと思った。それは血だった。

分からない。

私は、どうして、泣いているのだろう。















海の















かたり、と乾いた音で暗闇は崩れた。
黒に慣れた瞳はなかなか安定を取り戻さない。急激な光に狼狽しながら私は顔を上げた。

「………何、やってンの」
「………アウ、ル…」

怪訝そうに眉を顰め、彼は部屋の灯りを点ける。小さく電気の爆ぜる音がして、二三度の点滅の後闇は消え失せた。
未だ正常に機能しない声帯。常より余程か細い声。
私はフロートカプセルから体を起こす。セイシンノユリカゴ、と白衣を着た人たちがそう呼んでいた、母胎に似た柔らかな寝床を。
曖昧な意識を統合しようと緩く首を傾げた。視界が徐々に色を取り戻していく。

「もーとっくに時間終わってるッつの。何?アイツら呼びに来なかった訳?」
「『アイツら』…?」
「…白衣着たおっさん」
「…分から…ない」
「…ったく…」

来たのかも知れない。
―いや、来た。
静かな金属音で目が覚めて、奇妙なほど穏やかな声で「時間だよ」と告げられて。
いつもと同じように目を覚ましたは良いけれど、何故か今回は特に―頭がぼうっとしてしまって。
そのままもう一度、眠ってしまったのだ。

私がゆっくり瞬くと、アウルは呆れたように頭を掻いた。

「…アウル…?」
「…何だよ」

深い意味はない。他意もない。
ただ、訊いてみたかった。
蟠っていた想いが、回り出す。軋みながら。

私はぽつりと呟いた。

「みず…」
「は?」

俯く。アウルは一層顔を顰めて疑問符を投げた。
頬に感じられる何かの、痕。傷のような痛み、冷たさ。
彼は、既に知っているのだろうか。
私が初めて味わった、あの、感情を。

私は鈍った身体を揺らして、カプセルから降りる。
しんとした部屋に軽い音が響いて踵が落ちた。
肩を指先で抱く。震えだしそうだった。激情の残滓に。

小さな声で、続けた。

「目から、水が出るって、何?」

無機質な床。磨き上げられて却って何の美しさもない、何処か恐怖さえ感じさせる、人工物の光。
自分の踝が鮮明に写って、ぼやけた。
顔を上げる。
水色の髪を見る。
深い青の瞳を見る。
深淵の機体を操る少年の姿を、見る。

アウルは一瞬虚を突かれたように目を見開く。
僅かに開けた口が戦慄く。
動揺でも、したかのように。

私は不思議な気持でそれを見ていた。
何か、変なことでも訊いてしまったのだろうか。

彼はすぐに表情を切り替えると、いつもの口調で繕う。
それでも言葉の端は奇妙に歪んでいた。いびつに、何かに似て、いびつに。

「何だよ急に」

「…」

押し黙ると、溜息の気配が頭上で。私は自分の爪先に視線を落とす。



何かを忘れている気がした。
でも思い出せなかった。
あちこち痛む身体と、酷く錯綜する記憶。そして。
振り向く。
オーキッドの柔らかい寝床に、一枚の布切れ。
三基のフロートカプセル、林立する機械類、異様とも言えるこの空間にそぐわない、ただの。
目覚めたらそれがあった。
私は大切そうにそれを握りしめて眠っていた。
解けた意識はそれを拒絶した。
手放して、落とした。

そして。

そうして。

そうしたら。

手から離れていったその温もりに息苦しくなったかと思うと、私は頽れた。
訳も分からず顔を伏せると、目から雫が慕った。
頭の中を駆け巡る、声と、温度と、誰かの存在があった。知らなかった。

知らないと思った。

思い出すだけで訳の分からない感情が襲ってきて、胸を掻き毟りたくなる。
私は強張った指先を無理矢理曲げた。悲鳴を上げるように痛む。



「目から水、ねぇ…」

ふぅん、と鼻を鳴らして、揶揄うようないつもの眸で、頭の後ろで手を組む。
私はアウルを正面から見据える。
答えを、待つ。

彼は珍しく戸惑ったように一度開きかけた口を噤んだ。
それから、続ける。

「………そりゃ、『泣く』ってことだろ?」
「……………な、く…?」
「『泣く』。目から『涙』っていう水が出る」
「…なみだ」
「そ」

短く答えると何故か苛立ったように顔を背ける。

「涙…」

紡いだ言葉は自然に心の底に落ちた。
深く沈んだ棘が浮上するような痛覚で、胸の奥が痺れる。
波紋のように、呪詛のように、刻まれていく、声。


思い出さないで。
思い出してはいけない。
傷を呼び起こすような真似をしてどうしようというの?

捨てたものを振り返らないで。
何も要らない。
何も。
持ってはいけない。


…辛くなるだけだから。
…思い出さないで。


「…………………っっっ!」

息を呑んで固まった。
振り返って、青い布を見る。ハンカチ。貰った。どうして。誰に?…思い出せない。
凝り固まった闇が溶け出して、怯えて、閉じた。

「…ステラ?」

訝しげなアウルの声で我に返る。私は呼吸のリズムを取り戻そうと、徐に肩の力を抜いた。

「…何でも、ない」
「………」
「…アウル…?」

やるせない表情。思わず伸ばした右手は振り払われた。呆気なく。
所在を無くして掌を見つめて静かに降ろす。

アウルは小さな声で、ゆっくりと、口を開いて言った。


「…なぁ」
「…?」

不安になるくらいの掠れた声音。
どうしたのだろう。また、彼の気に障ることをしてしまっただろうか。

「………お前、今日、…何かあった?」
「…え…」

意外なほど。
揶揄うような、煽るような、侮蔑するような。
そんな彼の印象とは程遠い、心配するような、声。
揺りかごという甘い名に余りに似つかわしくない、記憶を封じ込めて溶かして―消してしまう、あの装置。
それを一瞥して、アウルは頭を振る。

「…訊いても意味無いよな。…思い出せない、か」

僕もだけど、と軽く言ったその言葉に、何故だか酷く切なくなった。
歪みに潜む痛みに、私達は気づけない。擦れ違うことしか、出来ない。
半ば独白のような自答に、私は頷いた。
溜息を吐いてアウルは肩を竦める。

「…別に、良いけど。何か変な物持ってたろ」
「…あれ…?」

顎でしゃくってハンカチを指すと、彼は首肯した。
何か逡巡しながらアウルは目を伏せる。綺麗な青が光のように絶えた。

「………気に、すんなよ。『僕たち』っつーのは、そういう…存在だろ」

「………分かってる…」

辿々しく吐かれたその言葉にもう一度頷いて、私は歩き出した。

思い出さないで。

その声さえも、記憶の彼方に葬り去って。
この手に触れた全ての温度を忘れて、この耳を灼いた全ての吐息を捨てて、この胸に届いた全ての声を切り捨てる。

傷つくことを恐れる余りに遠ざけた、欠片がどれほど苛もうとも。

私は唇を引き結んで顔を上げた。髪がさざめいて静まる。

「行くぞ」

パチン、と光源を切りアウルが振り返った。そっと頷いて、心に絡まった布切れを落とす。

さようなら、の言葉も知らずに、ただ、捨てる。



静寂を取り戻した部屋で、三つの揺りかごが淡く光っていた。








いつか逃げた場所。
躊躇った絶壁の果て。
終焉の時に相見えるのだろうか。それとも。

沈めた闇を消す為に、更に深い漆黒を纏った。



今はただ、振り向かずに。
走ることでこの傷の痛みを忘れていく。








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